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【小説】夢の海 第3話

夢の海 第3話

『-もう一度大草原の 片隅で話しよう-』
 一夫の声が丘の上、太陽の方角から聞こえた。
 私はスニーカーを脱ぎ捨て、砂混じりの芝生を駆け出した。
 冷たい砂と草が足の裏に張り付いては向かい風に飛ばされていった。
 ダッフルコートとマフラーは走りながら投げ捨てた。強風の中、ふたつは絡み合いながら凧みたく舞っていった。
 私はバカなので、身軽になれば先を行くあいつにも追いつける、ただそれだけのただそれだけだった。
 聞きたいことはたくさんある。

 あの日会いにいけば一緒に成長できたのかとかボディスウィッチングなしでもまた会えるのかとか、夢の海の好きな一番好きな歌詞とか。
 私という小さな点が緑の丘を駆け上がっていく様子を太陽は見ていた。
『-ふりしきる雨が僕の 体をゆっくりと洗い落とす-』
 また一夫の声が聞こえた。
 丘の上に近づくにつれ、ミストシャワーのようなお天気雨が私を包んだ。Yシャツが地肌にピッタリ張り付き、汗まじりの化粧は洗い流されていった。
 丘の上の白い光の中から手が伸びた。その手は一夫の声だった。
『-とびだそう手を上げて 君と行ったあの丘へ-』
 砂と芝生に足を取られながら私は手を伸ばし彼の手を掴んだ。体温のない乾いた手だった。
 その手を掴んで顔を上げた。
 その顔を見たいのに見たいのに雨が、いや私の雨が溢れて、そこにあるはずの顔や身体は境界線を失い、潤んだ世界は口元ぐらいしかはっきりと映してくれなかった。
 その口元は三日月の形をしていた。
「どうしてっ……!」
「どうして私は泣くことができるのに、あんたはそれを笑っていられるのか!」
 私は目の前にあるはずの見えない身体を叩いた。
「あんたはもう、自分の身体で泣けないんだぞ!」
 男は丘の上の草原に立ち、ただ笑っていた。
 男の口元が微かに動いた。
 次の迷路で待ってる。
 男は手を離した。
 待って、えっと。聞けない。聞けること。聞きたいこと。
「……が好きな歌詞を教えて」
 私は祈った。
『-』
 男は答えた。
「ああっ、よかった」
 私の口も男と同じ形になった。
 びしょびしょに泣きながら笑う私を見て、太陽はきっと笑ったのだろう。私の相貌が変わるのをずっと待っていたのだ。
 世界は朝になり白く染まっていった。
「はっ」
 見慣れた白い天井が目に入った。
 体を起こすと、周囲には積み上げられた引っ越し用の段ボールがあった。床にはビニール紐の玉、黒マジック、ハサミ、ガムテープが散乱していた。
 カーテンの隙間から光が差し込み、私を包む掛け布団の上を通り過ぎてリビングのソファーまで伸びていた。ソファーの周りには誰かが昨日まで生活していた痕跡が残っており、しわくちゃになった毛布、綺麗に折り畳まれたメイド服、カミソリ、セクシーな水着など脈絡のないグッズが転がっていた。
 突然うちに居候してきた誰かさんの生活の痕だ。
「あっ……」
 頬に触れると涙でびしょびしょに濡れていた。涙は流れ止まる所を知らず顔から溢れていった。
「夢を見て号泣するなんて……」
 しかも夢に出てきたあれは、前にふたりで行った海の近くの公園だ。一夫が体を失い、一方的に別れを告げる前に行ったあの公園。こんなときにこんな夢を見るなんてなんておセンチなんだ私は。
 ベッド横のティッシュに手を伸ばし、何枚も引いては拭いているのだけど止まらない。
 もう、どうしようっか。
 私は途方にくれた。視線は宙を浮きリビングに飛んで行った。
「……が上がれば ……はまた昇る」
 軽快なリズムの曲が聞こえた。ソファーの方からだ。
 私は泣きべそになりながら音源に近づいた。
 ソファー横のCDラジカセはラストフレーズを繰り返していた。
『-雨があがれば 陽はまた昇る-』
『-雨があがれば 陽はまた昇る-』
 次第に音は小さくなり、しぼむように停止していった。
 あの時あのデートのあの海で、現実の一夫が言った言葉を思い出した。
「俺は最後のあの歌詞が好きだ。何度も繰り返してくれるじゃないか」
「たとえ夜に生きていても、また朝がくるんじゃないかって期待しちゃうよ」
 今思うとあれは、体を失って身体になる前の一夫の遺言だった。
 私は洗面所に行って顔を洗いタオルで拭いた。
「よしっ」
 美人からちょっと崩れた顔を確認して、私は朝を始めることにした。
「はっくし」
「ピッ」
「ウィーン」
「ごぉー」
「パタパタパタパタ」
「ピッ」
「オユハキュウジュウドデス」
「ぽこぽこぽこぽこ」
 コーヒーを入れるだけなのに、ちっちゃな部屋に生活音は響いた。引越しで物が片付いているせいか少し広く感じる。
 カーテンを開いて、コーヒーを持って朝陽が差し込むベランダに出た。
 高台に位置しているこのアパートからはまわりの景色がよく見える。遠くには緑が多い街を臨むことができた。都市から郊外に向かうとじょじょに緑が増えていくのはとても現代的だと思う。
 コーヒーを飲みながら無心になった。
 リビングから再び音楽が聞こえた。
 ラジカセはさっきと同じ曲を再生していた。
『-とびだそう 緑の町へ-』
『-とびだそう 今すぐに-』
 坂の下から引越しのトラックが走るのが見えた。
 リビングのCDラジカセは「ヨヤクサイセイ」のデジタルな文字を表示していた。
 ぬるくなったコーヒーを一気に飲みほして室外機の上に置き、まだ冷たい三月の空気を吸い込んだ。
「人の家で勝手にDJしてんじゃねーよ」
 ばーか。
 わたしは罵詈を虚空に放って部屋に戻った。
 引っ越しの準備を始めた。

(終わり)

 

※参考

JAGATARA, 夢の海

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