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【小説】夢の海 第2話

夢の海 第2話
 建屋の近くに車を止めエンジンを切った。無音になるかと思ったが、風音が残った。車も少し揺れている。
「外、寒そうだね」
 一夫は言った。
「うん、後ろからコート取ってくる」
 聡美は運転席から外に出て後部座席のドアを開いた。体を伸ばして後ろに置いていた白いダッフルコート、緑基調のチェックのマフラー、白い毛糸の手袋を取り出した。
「ぅあー、下半身が寒い」
 聡美のスカートが揺らめいた。
 これは髪の毛結ばなかったら相当乱れてただろう。お団子ヘアーにしておいてよかった。
「風すごいね。早くドア閉めてよ」
 一夫は助手席に座ったままだった。
「あんたも早くでてきなさい」
 聡美は後部座席のドアを勢いをつけて閉めた。取り出した長いマフラーを首もとにぐるぐる巻きつけた。
 道路を挟んだ先の原っぱの奥で、風力発電の羽が高速回転しているのが見えた。どこからか飛んできた芝生がダッフルコートの袖口に張り付いたのではたいた。またすぐに飛んできたので、しょうがないと諦めはたくのをやめた。乾燥具合を確かめるために口をイーってすると、かさついた下唇がピリっと少し切れた。指でなぞると血で赤く染まった。
「バンっ」
 一夫もとうとう諦めて車から外に出てきた。
 一夫の防寒具は私に比べて心許なかった。
 キャメルカラーのPコートに薄手のマフラー、中にはYシャツとスラックスを身につけていた。とてもこの海風に耐えうる服装ではなく、表参道からどこでもドアでやってきたと言ったほうがしっくりくる。
 正午近いというのに車から伸びる影は長かった。
「ここは目的地の公園じゃなくて、道の駅みたいだね」
 一夫は建屋の前の案内図を見て言った。
「道の駅といっても今日はトイレしか営業していないみたいだね」
「あっ、そう」
「まぁ別に今日は地元野菜買いにきたわけじゃないから」
 来る途中にメロンの販売に関する看板をちらほら見かけたが、冬には収穫できないらしい。
 建屋の近くにはもう一台乗用車が停車していた。
 金髪の若いカップルが車内でいちゃついていた。風で揺れているのか彼らが揺らしているのか判断がつかなかった。ただ、自分の体を使って温め合うことができるのはとても良いことで、羨ましいと思った。寒い所に立つからこそ生まれる感想なんだと思う。
「じゃあ、行こうか」
 一夫は歩き出した。
 公園は建屋の裏手を歩いた先にあるらしい。なんで私たちはそこに向かっているのかわからないまま、私はついていった。
 しばらく平坦な芝生を歩いた。
 一夫はずっと無言だった。
 私も無言で歩いた。
 風だけがうるさかった。
 拷問のような寒さだったが怒りの感情は沸かなかった。むしろ希望の感情を抱いていた。何かにたどり着ける、いいことが待っている、そんな気がした。
「着いたよ」
 少し坂を下ったところで一夫は立ち止まった。目の前に大きな生垣が立ちはだかった。
「これは何?」
「迷路の公園」
「迷路?」
 目の前には成人男性の背丈以上の生垣があった。
 カベの左右端に生垣がない部分があり、両方とも「入口」と書いてあった。
「入り口は2つ、ゴールは1つの生垣でできた迷路。子供向けのアスレチックさ」
  子供向けという割には、生垣の高さは異常だった。この手の迷路は普通大人が子供の位置がすぐにわかるように、せいぜい子供の背丈ほどにすると思うんだけど。
「この迷路を抜けられたら、思っていることを全て話す」
「えっ……」
 一夫は目を細めて朗らかな表情で言った。
「知りたいんでしょ?俺が何を思っているか」
「……」
 別れ話だ。一夫は別れようとしている。しかもそれは男女の交際的な別れじゃない。未来永劫会えなくなるような別れ。なんとなく勘付いていたがずっと誤魔化していた。会える機会が減っていることとか、一夫の言葉や考え方が手からスルスル落ちていくこととか、日々感じていた。今じゃ音楽を介してでしかまともに話すことはできない。そういう話をしている間を良いのだが、それ以外はもう……。
 一夫が思っていることが、なーんちゃって、で済むような話であったらと願っている。そんなことはきっとないのだけど……。
「迷路を抜けたら海が近いんだ。子供のとき来たことあるから覚えている」
「結構ガチな迷路だからがんばってね。気をつけてね」
 一夫はこの迷路はみどりの丘っていうんだって、じゃあまたねと言うと走り出した。それがスタートの合図だった。
 ふたりはそれぞれの入り口に向けて、反対方向に走り出した。
 走りながら私は走る理由について考えた。
 なんで私たちは鹿島までドライブに来たのか。なんで一夫はこの公園に来たのか。一夫の思っていることを私は知りたいのか。どれもわからなかった。もし知りたくないのなら、ゴールしないほうがいいんじゃないのかとか、いろんなことを考えた。
 そんな私の気持ちを汲んでくれたのか迷路はなんどもなんども私を同じ十字路に連れ戻した。
 子供も来るようなアスレチック施設だと思って舐めていた。最初は5分もあればたどりつけるだろうと思っていたのに、ゴールに近づく様子は一切みられなかった。
「聡美ー、大丈夫かー」
 生垣の上を通って、一夫の声が聞こえた。割と近くにいるようだ。
「いまのところ大丈夫、でもこれむずいわ」
「だろーねー。俺、子供のときここで迷子になったもん」
「私もたぶん、迷子になりかけてる」
 一夫はガンバ、と一言告げると遠ざかっていった。
 さっきまで見えていた太陽は消え去り、頭上は灰色の雲で覆われていた。前に進んでいるのか、後ろに進んでいるのかもわからなくなった。方向感覚が狂った。
 気が付くと額から汗が垂れ、お団子ヘアーから髪の毛が崩れ漏れていた。汗でぐっしょり重くなった手袋と首元に巻いていたマフラーを外して小脇に抱えた。首元に風が流れ少し涼しくなった。
 立ち止まって膝に手をついて息を整えていると、再び一夫の声が聴こえた。とても遠くからだった。
「先にゴールで待ってるよー」
 サイレンのように彼の声は響いた。私は顔を上げるが、どうしたらいいかわからなかった。
 ただ一夫の声がした方に歩くことはできた、そんな単純な走性に頼っていた。一夫は迷路をどう生きていくかわかっているので、既にゴールしている。この時代をどう諦め。どのように認め、どのように夜を生きていくのか既に決定したんだ。そのことにどこか置いていかれた気持ちをずっと感じていた。
 私は迷わないことだけを考えて、片手を壁に着きながら歩きはじめた。こうするといつかゴールにたどり着くと、カードキャプターさくらの迷路編で読んだのを思い出した。先生だったら腕力で壁を破壊するのに、とかふざけたことえを考えていたら少し元気が出た。
 角を曲がるとこれまで見たことのない道に出た。
 道の先で光が差し込んでいるのが見えた。ゴールだ。
 気が付くと私はまた走り出していた。会える。会いたい。聞きたい。それだけを考えていた。一夫の声はだいぶ前からしなくなっていた。
 光に近づくにつれて波音が大きくなっていった。海は近い。
 白い光の差す生垣を掴みながら。私はついに迷路を脱出した。
 「……」
 ゴールを抜けた先には緑の芝生の丘があった。見上げると、丘の頂点と空が交わるあたりに太陽が見えた。
 一夫の姿はどこにもなかった。ゴールで待っていて抱きしめてくれると期待していたのに。

(続く)